『天使の翼』第5章(53)
わたしは、自分の記憶を搾り出そうとあがいた。人間の記憶というのは、我々の知覚に訴えてくる特異な情報とか、自分で意識してみたものについては、強く刻み付けられている。でも、あまり関心もなかったり、無意識でいたり、時間的余裕のなかったものについては、とてもあやふやで、あまり考えすぎると、見てもいないものを見たように思い込みかねない……
「――確か、手書きのインクで……デイテ殿と……書いてあった……」
「手書きか……。それは重要な手掛かりだな。当然、それは、主犯である有力者本人が書いたのかどうか、という疑問につながってくる」
シャルルの推理は、細部にこだわって、常にわたしがそれと気付くより二三歩先を行っている。
「今度の事件、そして、過去に連なっていると推測される連続事件は、いずれにしても、主犯の有力者一人で出来る事ではない。そのような有力者には、表向きの代理人、執事や、政庁の役人、企業であれば、執行役員、秘書らがいて、その一方で、裏方の仕事、簡単に言えば汚れ仕事を引き受ける子飼いの悪党が存在する。今度の件で言えば、僕たちを襲った黒い武装ヨットに、まさか有力者本人が乗っていたとは思えない。そして、考えるのもおぞましいことだけれど、捕らえた吟遊詩人を、一体どうやって幽閉するのか?どこに?……すぐに殺してしまうのか?そのこと一つをとっても、少なくない人手がかかるはずだ……」
シャルルは、一つの推論を立てるのに、まず、その謎の根底にある基本的な事実から出発する。彼の思考の軌跡が、わたしの脳裡に鮮やかに浮かび上がってきた……

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