『天使の翼』第5章(71)

 シャルルは、わたしに頷いて見せ、そして、顔をよせてきた……ああ、口付けされる……この世で最後の……涙がぽろぽろとこぼれる……このまま逃げてしまうことだってできたのに。シャルルったら――
 ――しかし、そのキスは、永遠にお預けとなった。
 「大変だぁー!水が噴き出してきたぞぉー!」
 この阿鼻叫喚の中、ひときわ大きく、つんざくような悲鳴が上がった。
 ほとんど同時に、わたし達の足首のあたりまで達していた水が、泡立つように波打ち、みるみるその水嵩を増してきた。
 水流からして、水が噴き出しているのは、わたし達の通ってきた後方のどこからしい……
 気付いた時には、わたしは、シャルルの手をぎゅっと握って、前方に駆け出していた。一瞬ダイアンと視線が合ったが、彼女の表情は、まさに人生最大の危機に直面した、掛け値なしの『真顔』だった――わたしも、同じだったろう。わたし達は、頷き交わした。
 とにかく、シャルルが、これ以上良心の呵責に捕えられないうちに、彼をこの場から連れ出さなくては。
 (シャルルを死なせない!)

 絶対に生きてここから出てみせる――
 わたしの体の奥の奥から、漲るような力が湧き上がってきた――わたしは、がむしゃらに前へ前へと突進した。
 自然の営みは容赦なく、水嵩は、どんどん増して、わたし達の膝、腰、胸……そして、ついに肩の辺りまで達した。
 この時になって、わたしは、突然テナー大佐のことを思い出したが、それも一瞬のことで、すぐに脳裡を去り、わたしは、前進あるのみ、後から思えば無謀としか言いようがないけれど、全身これ意志の塊となって、ぐいぐいとシャルルを引っ張っていった。きっとものすごい形相だったと思う……
 足下に感じる洞窟隊商路の路面が急に登りとなり、わたし達は、水の抵抗に全身の力を振り絞って、最後は一気にそこを駆け上がった。
 わたし達が通ってきた通路は、文字通り水で満たされ下向きにたわんだチューブのようになって、完全に水没し、わたし達の足元に、ひたひたと白く泡立つ波を寄せてきた……