『天使の翼』第4章(2)
やがてわたしの番が来て、いつものことながら、わたしは、軽い目眩を覚えた――いかに自動操縦とはいえ、この船の航宙士が正気を保っていてくれることをわたしは祈る……
全員の注射を終え、配給庁の技官と警備兵らは退船した。
船内は、そこかしこで、押し殺した会話の声がするものの、大半の乗客は、聖薬摂取の副作用で睡魔に襲われ夢の世界を彷徨っている……
一瞬体の浮くような感覚とともに、船が、係留棟から離脱した。
わたしたちの船とリングの間には、もう順番を待つ船は一船しかない――旧式だが歴とした個人のスペース・クルーザー……いずれどこかの大富豪か貴族の乗船だろう……これ見よがしな紋章やロゴの類は一切付いてない……
……その銀色に輝く船体が、突然船首方向に、やわらかい飴か何かのようにギューっと引き伸ばされたと見る間もなく――リングの中に消えた――リングの表面に極地光(オーロラ)のような波紋を残して……
わたし達の船は、徐々に徐々に、リングの中央に軸線を合わせて接近していく……
超空間航法ワープは、ワーム・ホールと呼ばれる紐状の捩れた空間を通過して、一気に目的地へと接近する航法だ。超空間航法中継基地ワープ・ステーションを使うにせよ、自載ドライブ超空間航法(ワープ)装置(エンジン)で直接移動するにせよ、原理は同じ、強大な引力で空間をねじ曲げ、次いで、その紐状空間を目的地へと振り向ける……したがって、ワープする船は、決して、いったん消滅して目的地にいきなり顕在化する訳ではない。あくまで、ワーム・ホールを通って行くのだ。当然、紐状空間の距離によって、目的地に着く時間は変わってくるし、同じ目的地であっても紐状空間の出来具合によってかなりの程度の誤差を生じる。
GTS社は、自社の連絡船のポート・シルキーズ着を、平均して標準時5時間と称していた。それだと、現地時間の夕刻に到着ということになる……わたしは吟遊詩人だから、歌代の一部――時には全部――が宿泊代となる……それでもどこか一夜の宿を確保できるだろうか――
そんなことに気がそれているうちに、異次元への窓ワープ・ウインドーが眼前に大きく立ちはだかり、次の瞬間、奇しく光が乱舞して…………
…………わたしは、いつの間にか、祖母の胸に抱かれていた――幼い少女のように。
祖母の深いしわの刻まれた顔が眼前に迫ってくる。
祖母の口がもぐもぐ動いているのを、もうろうとした意識の中で、わたしは見ている。
思考の定まらないわたしは、祖母の口が何故動いているのか、最初のうち分からない……
光の乱舞――
わたしの意識の一部は、自分は今宇宙船に乗ってワーム・ホールを通過しているのだと分かっている――窓の外は、光のチューブ。すべての光が線と化して流れていく……
……でも、意識の混濁したわたしには分からない――わたしが今、ワーム・ホールを通過しながら夢を見ているんだという単純な構図が……窓の外の光景と、眼前に迫る祖母の顔は、意識の中で切り離されて、それぞれが独立したイメージとなって、わたしの心の中に浮かび上がってくる――
わたしは、突然、もぐもぐ動く祖母の口は、何か言葉をわたしに発しているのだということに気付く。
わたしは、何とか祖母の口に意識を集中しようとする。……なかなかうまくいかない。集中しようとすればするほど、様々な記憶の断片、相互に関連のない記憶の塵が、シャワーのようにわたしに降り注ぐ……
「おばあちゃん!声に出して!」
駄目だ。分からない……何と言っているのか……ひとつの単語を繰り返しているような……
わたしは、急に悪寒に襲われる――もしや、行方不明の両親に関する秘密では――
その瞬間、わたしの足元の床が落とし戸の開くように忽然と消えてなくなり、わたしは、奈落の底に向かって、体ごと、落ちていく、落ちていく――

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