『天使の翼』第4章(1)

 人類の文明は、人の手で栽培しやすい野生の植物種が発見され、その食糧生産技術が発達して、余剰食料が生じた時に、その揺籃の時を迎えた。食糧生産に従事しなくてもよい人口比率の増大、そして、その人々の職能の爆発的な分化が、人類に文明をもたらした。……簡単に言うと、畑仕事から解放され、ぶらぶらしていられる余剰人員が生じたからこそ、文明が育つことが出来たのである。……会社組織も全く同様である。人員にある程度の余裕がないと、新しいものは生まれないし、会社の成長もない。長期的に見て人件費の削減が容認されるようなケースは、それほどあるものではない。人件費の節減は、人員の『量』以上に、『質』を著しく悪化させる……
       (第一王朝初期、左派と称された経営学者のひとり)



 アケルナル・キャットは、賢い。
 わたしが短い滞在を終えて旅立つことを、敏感に察知したのだ。
 彼女は、しつこく付きまとうこともなく、素直にお別れのキスを済ますと、車寄せの砂利の上にぺたりとお尻をおろして、わたしをじっと見送った。最後に浮揚したエアカーのリアウインドーから振り返った時、彼女は、断崖へと続く森の茂みに入って行くところだった……
 早朝便を選んだのは正解で、エアタクシーは、首都の渋滞に巻き込まれることもなく、すんなりと、快適に飛ばしてインペリアル・スペースポートへと滑り込んだ。
 早朝の宇宙港は、宵越しの客と、朝から多忙な人種とで、思った以上に混んでいるものだ。どちらも睡眠不足であることに変わりはなく、人波は一種独特の静寂に包まれて流れていく。
 わたしは、わたしの制服とも言うべき黒のコート――全天候・周年対応型のハイテク生地でできている――をはおり、あとは、ギターを左肩、ささやかな手荷物を右肩に、ギャラクシー・ツーリスト航宙会社のポート・シルキーズ直行便を目指した。特に鋭敏な観察者でなくとも、わたしがリゾートでの一稼ぎをもくろむ吟遊詩人であると察したろう――それでいいのだ。わたしが実際には、白の装束こそふさわしい天使だと分かる人間は、誰もいない。

 自由人には法定の旅費が適用されるため、少なくとも恒星間渡航に関して経済的な障害は取り除かれている。勢い旅行者も多いのだ。通常料金との差額は帝国政府によって補填される――第一王朝期には皇帝の金庫から直接支出されていた――から、旅行者争奪戦における自由人のそれは、各旅行会社にとって極めてプライオリティーが高い。
 わたしは、搭乗タワーでの諸手続きを、VIP並みの笑顔とサービス――VIPルームへの入室を含む――に包まれて通過し、快適な気分のまま、ポート・シルキーズ直行便のシートに収まった。
 目的地が目的地なだけに、仕事絡みの人間には肩身が狭い船内だ。船内各所に浮いている、ひと目でそれと判るビジネスマンあるいはウーマン達は、皆一様に、周囲の情景に素知らぬ振りを装って、携帯コンピューターの画面に集中しようとしている。
 わたしにとっても、家族連れや若いカップルは、見ていて楽しいものではない――家族とは生き別れ、もっか特定の恋人はいないわたしなのだ。……わたしは、心がずきずきとうずき出す前に、固く瞳を閉じて自らの心の中へと沈んでいった。わたしは、吟遊詩人だ。
周囲の状況をシャットアウトして、心の中で作詞作曲する……
 心象の世界に埋没しているわたしは、重力などの大きな力が微妙に変化した時、ふと現実に引き戻されることがある。
 目を開いて船窓を見やったわたしは、光り輝く巨大な超空間航法中継基地ワープ・ステーションが、みるみる大きく近付いてくるのを目にした。
 ワープ・ステーションは、異次元への窓ワープ・ウインドーと呼ばれる直径2標準キロはあるリング部と、航宙病の予防注射の行われる聖薬配給所の係留棟からなる。今しも、妖しい光を放つワープ・ウインドーの幻雲の中に、無人ロボット貨物船のシガー型の巨体が吸い込まれて消えた……

 わたしの乗るGTS社の恒星間連絡船の前には、大小さまざまな宇宙船が、目に見えない糸で数珠繋ぎに連なっていた。地上の首都中央管制センターが、無作為に選んだ船の列だ。テラ・アケルナルの大気圏外にある99のワープ・ステーションのどこに並ばせられるかは、誰にも分からない。それは、防犯のためでもあるし、また、特定のワープ・ステーションにだけ遠隔ワープの過負荷がかかることを未然に防止している。銀河帝国の首都に集中する恐るべき交通量は、無作為(ランダム)という名の神によって、発三次元ステーション99基、そして着三次元ステーション99基の合計198基を、巧みに通過していくのだ。
 窓外の光景に見惚れていたわたしは、やがて、シートベルトがカチリと音をたてて一段階ギュッと引き締まったのを感じた。
 いよいよ、聖薬配給庁による聖薬の配給、すなわち聖薬の予防注射が行われるのだ。
 乗客・乗員は、全員、自分の座席に拘束された。
 ついで、ほとんど感じられないほどのかすかな衝撃とともに、連絡船は、聖薬配給所の繋留棟にドッキングした。
 船内は、完全な沈黙に支配されている。毎度ながら、緊張する瞬間だ。
 ――空気の圧搾音に続いて、船体の二重ドアーが開いた。
 間髪を入れず黄色い稲妻が船内になだれ込んできた。――黒の戦闘服には、腕の部分に、鮮やかな黄色の二重線が入っている――すなわち配給庁軍の警備部隊……
 わたしは、わが目を疑った。

 配給庁軍の一個小隊が船内要所の配置に着くと同時に、今度は、黄色三重線(イエロー・トリプル)の部隊が突入してきた。
 このような事態は、銀河の旅行者であるわたしにとっても、初めての経験だ……何故査察庁軍が……
 十人ほどのイエロー・トリプルの男たちは、まっすぐわたしの方に突進してくる――抜き身のニードル・ガンを構えて――わたしは、パニックに襲われて身をすくめた――屈強の男たちの有無を言わさぬ迫力の突撃――わたしは、テナー大佐のことをようやく思い出して助けを叫びそうに……
 (違った!)
 わたしの前の座席の禿頭の男が、拘束されたベルトの中でもがいている。
 査察庁軍の一兵士が銃の引き金を引いた――銃口が膨れているから麻酔銃に違いない――
 身もだえしていた男が、マリオネットのように崩折れた――糸が切れたという表現がぴったりだ……
 後から思い起こすと、逮捕劇は、一瞬の出来事だった……禿頭の男の罪名は一体何だったのか?少なくとも逃げようとしていたからには、確信犯だった訳だ。聖薬がらみの犯罪が成功する確率なんてゼロに等しいのに……

 イエロー・トリプルと謎の男は、砂漠の蜃気楼のように消えてなくなり……何事もなかったかのように配給庁の技官達が乗り込んできた――何の説明もないまま、粛々と抗航宙病剤――聖薬の注射が行われていく。