『天使の翼』第2章(10)
皇帝との予期せぬ会話の中で、わたしは、聖薬とその安全保障について巷間いわれていることを、ほとんど瞬時に思い巡らしていた。
サンス大公国が帝国の転覆を図っているとすれば、その前提として、大量の聖薬を保有していなくてはならない――そうでなければ、とても帝国軍に対抗できる訳がない……
でも、どうやって、手に入れたというのだ?
歴代の皇帝は皆、毎朝の執務の最初に、聖薬三庁から提出される三部の日報に目を通すという。そうやって、帝国の安全保障の原点を確認してから、さし当たっての懸案に取り掛かるのだ。現皇帝も、そうしてきたし、そこには、未解決の重大な紛失事件は、一件も報告されていないというのだ……
「考えられることは二つだ――」
皇帝のしゃがれた声が、わたしの耳朶を打った。
「聖薬三庁の定時報告が、故意・過失を問わず間違っており、信用できん場合――」
「……」
「そして、もう一つは、聖薬三庁の管轄外で、たとえば、聖薬が合成されたか、セイント・イエローが栽培されているか……」
「管轄外?」
「いや、これは失言だ。管轄外ということはありえん。わしが言いたかったのは、報告はその限りで正しいが、査察庁がまだ調べていないどこかで、聖薬が作られているということ……」
わたしは、思った――確かに、可能性は、ある。しかし、その可能性は、きわめて低いのではないか……。それとも、そう思うのは、聖薬による平和に慣れきってしまった心のなせる業だろうか……。
「聖薬三庁からの各種の報告は、大勢の人間が関与して作られている。そこに欺瞞があるとすれば、組織ぐるみとしか考えられん……思いもかけないトリックがあるのでもない限りはな……」
トリックがあるとすれば、それは、聖薬に関する計算式のどこかに潜んでいるはずだ。
……聖薬三庁の定時報告に瑕疵があるとして、それが過失によるということは考えられるのだろうか?たとえば、管理庁の係官が、聖薬の生産量を誤って過少に入力し、それに気付いた誰かが、次の棚卸までに、浮いた分の聖薬を着服してしまうような場合だ……。
恐らく、過少に入力すること自体が不可能だろう――そんな基本的な部分には、厳重なダブル・チェック、トリプル・チェックの網がかけられているはずである。過失によって浮いた在庫がサンス大公国に流れるためには、まず、厳重なトリプル・チェックによってさえ数値の誤入力が正されず、さらには、そのことに次の棚卸の前に誰かが気付いて、着服し、その者が、どういう経路でか大公国の謀叛の意図を察知して売り渡す……偶然の上に偶然が重なり、さらに、恐ろしく危険な取引がなされなくてはならない。取引の成立した瞬間に消されるに決まっている……。そんなことをするより、逆に、その誤りを気付いて報告すれば、間違いなく帝国の英雄になれる。帝国第一等栄誉勲章どころか、平民であれば、叙爵されるだろう……もっとも、政府がそのような失態を公表するはずがないから、褒賞も、そして処罰も、すべて隠密裏に行われるのだろうが……
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