『天使の翼』第8章(36)

 シャルルに腕を摑まれて、わたしは、我に返った。
 「君にこんなことをさせるのは忍びないのだけど、手を貸して欲しい……」
 シャルルが上半身、わたしが両足を持った。重いとか、そういうことを言っている場合ではなかった。後に血痕を残さぬよう、頭部は男の上着でぐるぐる巻きにしてある。死んだ男の表情を見ないで済むのがせめてもの救いだった。わたし達は、手下の亡骸を森の中へと運んだ……
 「川に流すことにする」
 茂みに隠すのだとばかり思っていたわたしは、シャルルのこの言葉に少なからず驚いた。
 「簡単に見付かってはまずいんだ。今僕らは修道院よりも下流にいる。そして、ジェーンからもらったパンフレットの絵地図では、渓谷は、ずっと人家のない森の中を流れていく」
 わたし達は、歯を食い縛って、ぐらぐらと揺れる重い体を運んだ。ただの物体と化したそれは、扱いにくく、すぐに手からすっぽ抜けそうになる。早くしないとすっかり暗くなってしまうという思いが、わたし達の原動力となった。
 その辺りは、比較的だが、疎林といってもよい植生だったので、何とか最後まで運び通すことができた。
 初めて見る渓谷は、想像を遥かに超えていた――向こう岸まで、優に200標準メートル、深さは、100標準メートルはある……轟々と流れる河の音がくぐもって聞こえた。
 わたしは、シャルルと頷き合わせて、遺骸を投げた――
 遺骸は、岩屑を巻き込みながら転げ落ち、音もなく泡立つ河面に消えた。
 「男の首筋にあった深い傷に気付いたかい?」

 「ええ、そんなに古いものではないわね……」
 「あの洞窟でだろう……」
 シャルルは、悪辣極まりなかった男に対して、合掌して見せたりはしなかったが、複雑な思いに捉えられているようだった。
 すぐに我に返って――
 「ヨットの所まで戻ろう」
 わたし達は、再び森の中を駆け抜けた。
 その時、身軽に先を行くシャルルのポニーテールが、まるで特別な森の生き物でもあるかのようにぴょんぴょん跳ねていた様を、わたしは、妙に鮮やかな映像として記憶している。