『天使の翼』第2章(12)

 「天使の翼――わしも、実際には見たことがない。そもそも、天使を叙任すること自体、初めての経験だ……」
 わたしは、意味を悟って、身震いした。
 『天使』は、皇帝の使者の唯一最高の形態であって、叙任といっても、正確には、神の代理としての皇帝の行為だ。したがって、その場には、必ずコスモス・カソリクスの司教が立ち会う。天使の声は、すなわち皇帝の声であるが、必ずしもそれに束縛されることはなく、より広義には、人類共同体の正義の声とされている……
 「……調べてみたが、この前天使が叙任されたのは、なんと、わしより三十九代前のドーラ皇帝四世の時代、ある大貴族が自然的な理由で断絶して、その領星を帝国直轄領に編入した時じゃった。……権力の移行を穏便に済ますための派遣だ。……そのときの天使も女性じゃったそうな……」
 「……」
 正直に言うと、この時わたしは、責任の余りの重さに実感がつかめず、自分が天使になって、白く汚れのない美しい翼を持つということに、陶酔にも似た昂揚を覚えていた……
 「デイテ、天使の翼で羽ばたくのは、最後の最後じゃ」
 どうも、皇帝には、わたしの心の動きが読めるらしい。
 「――二つの謎を探ってからだ」
 ここで、皇帝は、再び笑みを見せると――

 「誰かある」
 すかさず、クレイヴスが姿を現した。
 「陛下」
 「王子をここへ」
 わたしには、クレイヴスが絶句するのが分かった。
 「――。かしこまりました」
 (王子って誰のこと?皇帝の孫のことかしら……自分の孫を王子なんて呼ぶ?……)
 ……ほどなくして、一人の青年が入ってきた。
 やせていて……背はさほど高くなく、女にしては高い方のわたしより、ほんの少し高いくらい……顔は……伏し目がちで、陰になっている……
 青年は、控えめに、だが明らかな敬意をこめて拝跪した……顔を上げて皇帝を見、そして、わたしの方を見た――
 その月明かりに照らされた青年の顔を見て、わたしは瞬間息が詰まった――美しい女性のように整った顔立ちだが、何よりもわたしが驚いたのは、その透き通った表情だった。そのすずやかな面の下は、まるで余剰次元のように深く深く底なしで、吸い込まれてしまいそう……

 残念なことに、青年は、わたしの外見に動かされたふうも無く、明らかに戸惑っていた。わたしは、青年の着衣を一瞥したが、それが、帝国文官の地味な制服であること以外、身分を示すものは、いっさいなかった。
 仕方なく、わたしも、そして、青年も、皇帝の顔を顧みた。
 皇帝は、わたし達二人の対面にご満悦の様子である。
 クレイヴスが、もう一脚の椅子を持って戻り、すぐに姿を消した。
 青年が着座するのを待って、皇帝は――
 「改めて紹介しよう。こちらは、シャルル・トーマス准王殿下。聖薬査察庁の副長官補にして特命査察官だ。――トーマス、こちらの女性は、わしが密かに贔屓にしている吟遊詩人のデイテ、近々……と言うか、今夜、天使に叙任される」
 トーマス殿下……と呼んでいいのだろうか、彼は、心底驚いた顔で、わたしの顔をまじまじと見詰めた。
 本当ならどぎまぎしてもよい所だけど、驚いたのは、わたしも同じだ。この若い、か弱いといっていい位の青年が――わたしと同い年くらいだ――間違いなくこの広い銀河の中でも十指に余る権力者だなんて――護民官とだろうが、大法官とだろうが、大臣とだろうが、堂々と同席できるのだ……
 皇帝は、さらに続けた。
 「今、銀河帝国には、正王位を持つ者は一人もおらん。したがって、副王位を持つ者もだ。……それでは、准王位を持つ者がいるかといえば、実は一人もおらん。秘密裏に准王のタイトルを保持している者もいないのだ――トーマスの他にはな」

 「……」
 「つまり、形の上では、この若者は、わが帝国のナンバー2なのだ」
 ここで、皇帝は、高らかに笑った――難局を切り抜ける切り札を手にしたように……
 「彼は、アケルナル帝国大学の哲学科を五年前に首席で卒業した……全銀河の最高学府の哲学科のトップだぞ!――わしは、トーマスの闇を切り裂き、岩をも穿つ洞察力に全幅の信頼を置いておる」
 「陛下、そのように大げさに仰せられては、デイテ殿が口を利いてくれなくなります……」
 殿下は、顔を赤らめていた。
 笑おうとした皇帝が咳き込み、わたしは、思わず背中をさすって差し上げたい衝動にかられた。殿下と思わず顔を見合わせる。
 皇帝は、なにごとも無かったかのように――
 「トーマスに聞く――何故サンスは謀叛に走る?」
 「聖薬があるからです――非常にたくさんの聖薬が」
  殿下は、間髪を入れずに答えた。
 「聖薬がなければ、そもそも叛逆を企図することなどなかったでしょう」

 「何故聖薬があるのだ?」
 「まだ、可能性……いや、憶測を羅列することしかできません。たとえば、聖薬がなくてもWAS航宙病にかからないシステムがあるのかも知れない――理論物理学の応用で超空間航法中の人体を隔離することができるのかも。それもまた、一種の聖薬です。そういった広い意味で、サンス大公は聖薬を保持している。まさに、それを探るのが、私の捜査です」
 ……この簡単な問答は、わたしにいくつかのことを教えてくれた。
 問答自体は、あながちわたしに聞かせる為のパフォーマンスではなさそうだ――その事は、サンスの件が皇帝と殿下の間で話し合われたのが、つい最近であることを示している……わたしは、事がまだきわめてホットな段階で、今度の件に引き入れられたのだ。
 そして、殿下の明快な答えは、明快すぎて単純なようにも聞こえるが、明らかに、殿下の頭の中では、いくつにも枝分かれした推理の道筋が、かなり先の方まで見えていることが感じ取れる……この先どんな事態になろうとも、この青年は、滅多なことでは驚かないだろう……
 わたしは、直感的に理解していた――この青年は、頼りになる。いつでも、心の内をさらけ出して話し合える――瑣末なことにこだわったり、変に誤解されることを恐れたりする必要はまったく無い……それどころか、見詰め合っただけで、お互いの考えを交換できるかも――
 わたしは、青年の視線を捉えた。
 青年も、ひたとわたしを見詰め返してきた――そして、頷いた。

 甘美な瞬間だった。
 わたしは、この青年を、シャルルと呼ぶことにした。   
  
   

   彼は、心の水先案内人
   心の海は、本当に気紛れ
   彼は、その海の動きを繊細に感じ取る
   たとえ、海面に幻が写っても――
   たとえ、海面が病で濁っていても――
   彼は、惑わされること無く、裸の海を凝視する
   見詰められた海は、頬を染めて
   自分の本心が彼に知られたことを知る 


( 第2章 完 )