『天使の翼』第2章(7) 皇帝は、わたしの沈黙の意味を、正確に察知されたようだ。 「謎は、それだな――。聖薬三庁からの定時報告を信ずるなら、過去半年はおろか、何年、何十年遡っても、聖薬の生産・配給・その後の使用状況に、それこそ、『1WOP(ウォップ)の疑念もない』のだ」 WOPとは、warp of one personの略であり、人類一人が、性別・年齢・距離に関係なく、一回のワープに必要とする聖薬の量を表す。『1WOPの疑念もない』と言えば、かなり古く、第一王朝期から使われてきた慣用句で、青天白日、完全なる潔白、万事順調などの意味で使われる。 人類の宇宙時代の開闢期、われらが祖先は、多大なリスクをしょって宇宙空間に旅立った。 超空間航法が人類の神経系に与えるダメージは大きく、失語症・記憶喪失・夢遊病をはじめ、意識障害・脳機能障害への罹患率が常に50%を超え、一つの船団を丸ごと失うような大事故もまれではなかった。宗教界からは、宇宙時代への幕開けを神への冒涜と捉える、非難の大合唱が巻き起こった…… それでも、母なる地球にもう人類を養えるだけの母乳が残っていないことは明らかで、人類は、危険を承知で、宇宙へと巣立っていったのだ……。多くの船団が旅立ち、そして、ついにその中の一つが、当時β‐Colと言う記号で知られていた恒星系で運命的な出会いを果たす。 そもそも、β‐Colは、惑星系の存在が確認されておらず、人類の有望な植民星のリストには載っていなかった。シャー=ロイド船団は、計器の誤作動により、まったくの偶然でβ‐Colへと運ばれ、そして、三つの惑星系を発見した。最初の二つは巨大なガス惑星だったが、目立たない三番目の惑星の、恒星に照らされた昼の側を見た時、船団に歓喜の声が沸き起こった。――見紛うはずもない海と大気が確認できたのである。待望の地球型惑星の発見だった。 しかし、聖薬の発見は、それからさらに半世紀を待たねばならなかった。人類は、長い間自分の足元にある宝に気付かなかったのだ。 ――それも無理もないことだ。もしかしたら永遠に発見できなかったかも知れない。かつて、古代の地球で、多くの病原菌とそれに対抗する特効薬とが密林と言う名の僻地からもたらされたように、聖薬の成分物質は、β‐Col第一惑星の森林限界を超えた高山と言う僻地からもたらされた。……当時存在した地球連合政府の一地方大学の薬学教授が、政府の特別の許可で検疫をパスした、あらゆる惑星のあらゆる植物を調べるプロジェクトに携わっており、一見当てもない手当たり次第の研究が、見事に宝の山を掘り当てた。 それは、黄色の可憐な花を咲かせる草本の多年生高山植物で、最大の特徴は、その深く太い根にある。高山の、少雨・寒冷・強風といった厳しい環境に耐え、また、その高山の岩場特有の重金属を取り込む。β‐Col第一惑星の入植者達からセイント・イエローと言う名で呼ばれていたこの植物の群落は、きわめて特殊な条件が幾重にも折り重なった所にしか見出せず、栽培はとても無理だ。そして、当然、そのような特殊な環境条件は、ちょっとしたことで簡単に崩れ去る。 セイント・イエローの薬効――超空間航法の前にごく少量服用すれば、神経系に起きる障害を阻止できるという驚くべき薬効――が確認されるや、植民星省の前身である惑星開発公社の大気地球化プロジェクトは、直ちに停止され、逆転され、いくつかの歴史的事件を経た後に、銀河帝国第一王朝が成立した。 人類の宇宙時代は、超空間航法の発明と、聖薬の発見を経て、聖薬の独占による平和という枠組みを獲得した。 ただ、第一王朝の場合は、その平和の枠組みが、十分に洗練されていなかったのだ。――だから、第一王朝は滅んだ。皇帝権力を絶対化して、平和と平等をもたらそうとしたのだが、その平和の基盤である聖薬の独占の形態そのものが、いつの間にか危機に瀕していた。――聖薬を管理する聖薬省の長官職が、ベータ伯爵家――言うまでもなくβ‐Colにちなんでいる――によって世襲される事態が長く続いていたのだ。聖薬省内部の官職も、伯爵家の家政機関化していた。 ベータ伯爵は、軍を味方につけ、皇帝権力の絶対化に反対する多くの封建領主の支持を得て、革命を成功させた――なにしろ、『平和の根元』を握っていたのだから…… 言うなれば、これは上からの革命だった。歴史の大きな要請の前に、第一王朝打倒の近道としてベータ伯爵家が使われたのである。その点、ベータ家出身の三代目の皇帝は、歴史の教訓から何も学んでいなかった――彼は、政治的配慮を欠いた中央集権化を推進し、この時点で、歴史の歯車が最後の百八十度を回りだした。歴史は、平和を希求しつつも、旧態依然とした絶対主義は、断固として拒絶していたのだ。血なまぐさく容赦のない――今度のは、下からの革命だ――嵐が吹き荒れ、厳格な基準と手続きの要求される皇帝指名制度が確立された。ベータ伯爵家の名は、歴史の教訓と言うレッテルを貼られて断絶した。 以来第二王朝は、幸運といってもよい政治的決断の数々を重ねて、権力の配分と均衡、そして、聖薬による安全保障という二つのシステムを洗練させていった。 聖薬による安全保障再建の第一歩は、何世紀も経た今から見ても、実に壮大で、聞いただけでは荒唐無稽と言ってもよい計画だった。――恒星系置換計画……。われらが祖先は、これを実行した。 別名、宇宙のピラミッドとも言われている。 ピラミッドというのは、太古の地球にあったとされる霊魂の復活のための建物だ。太古のピラミッドは石で造られていたが、宇宙のピラミッドは、各種の合金で造られた、巨大な宇宙ステーションの、無数の集合体だった。――β‐Colの周囲に、集合体としての巨大な超空間航法中継基地が一基出現したのである。 恒星系を移転させるとなると、それと同等の質量・特性を持った恒星系と置換させる必要がある――そうしないと、とても厄介なことになるのは、誰にでも想像のつくところだ。そもそも、β‐Colを移転させるのは、銀河系に、政治権力の中枢が二つできることを避け、聖薬の産地と帝国の首都を近接させようという要請からきている。アケルナルからほぼ2光年の距離にあった恒星系に白羽の矢が立てられ、装置が稼働された。わたし達は、今でもその時の映像を見ることが出来るが、画面が一瞬真っ白になり、文字通り音もなく、次の瞬間には恒星系が入れ替わっている。二つの恒星系を取り巻くピラミッドの解体には、その後標準年で何十年もかかった。 聖薬による安全保障の制度面については、その根本に、聖薬三原則があることは、第一王朝も第二王朝も変わりない。いわく―― (第一原則)分析・研究の禁止 何人も、セイント・イエローの生態を研究し、または、聖薬の成分を分析してはならない。 (第二原則)移植・所有の禁止 何人も、セイント・イエローをβ‐Col第一惑星より持ち出してはならない。また、聖薬は、使用のつど配給され、これを、所有・備蓄してはならない。 (第三原則)栽培・合成の禁止 何人も、セイント・イエローを栽培し、または、聖薬を合成してはならない。 問題は、この三原則を徹底するために、どのような組織・システムを構築するかにかかっている。第一王朝にあっては、聖薬を管掌する官庁は、聖薬省一本であった。これが、全ての腐敗の揺籃となった。第二王朝は、これを、聖薬三庁体制に変えた。
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