『天使の翼』第2章(6)

 「陛下。サンス大公は、事実そのような男なのですか?」
  皇帝は、再び視線をわたしの方へ向け――
 「保護国省の大使、副大公、大使館に送り込んだ心理学者……多くの報告、情報を、情報総省の分析官がプロファイルした――」
 「……」
 「その中の短い一節は興味深いぞ。『当該人には、他人の痛みは、何の重みももっていない』……」
  ……つまり、間単に踏みにじるということだ。目的の為には、それが欲望のためであれ何であれ、手段を選ばぬ、ということだ――しかも、並みの犯罪者と違ってそれを実現させる権力を持っている……法的な抑止が働かないという意味では、皇帝以上の自由裁量権を……わたしは、不思議にすら思った――大公には、本当に一片の人間性もないのだろうか?人間的な弱さや、慈悲の心は……
 「陛下、聞くだけで身の毛がよだちます。そのような男が……実際、謀叛の事実はどの程度確かなことなのですか?」
 「そなたには、全て話す。始まりは、情報総省安全保障局の国家侵害プログラムにアラーム(警報)がでるようになったのだ。プログラムに予め設定された事象……諜報員の消失・シンパ(共鳴者)の監視・国境の閉鎖性・造兵廠の熱量増大……無数にある項目のかなりの数が、無視できない頻度で、特定の場所、特定の時間に集中しだした……」

 「……」
 「特定の場所、すなわちサンス大公国。特定の時間、すなわち標準年で半年前から」
 わたしは、このような事実がわたしなどに明かされる『理由』のことなど忘れて、聞き入っていた。
 「残念ながら、具体的なことはまだ何もつかんでおらん。それ位、公国と帝国の国境はタイトになっている。……逆に言うと、公国は、国境の検問が厳しくなったことが我が方に知られても構わないほど、隠蔽したいことがあるのだ。そしてーー」
 「陛下、大公国の企みが整う前に、今すぐ征討軍を――」
 わたしは、分をわきまえずに口走っていた。
 皇帝は笑って――
 「血気盛んなことだ。――わしも、それは考えた。演習と称して、突然連合艦隊を派兵するとかな……が、実際の所、それは蛮勇に過ぎん」
 「……」
 「不満かもしれんが、出来んのだ。保護国と帝国の平和条約コスモス・マグナカルタに反しておる――公国に絶対の口実を与えることになる――公国がどの程度の迎撃態勢を整えているのか分からん――万が一杞憂であったらどうする?あくまで反乱罪としてごり押すのか?」
 「……」
 「わしが言いかけたのは、わが方が大公国に諜報を仕掛けているように、大公国が我が方にどの程度食い込んでいるか油断できぬということだ……これは、あくまで仮定の話だが、わが政府の宰相が加担している事だって、可能性がゼロではないぞ。それでは、もっと公国に近いサンス副大公はどうだ?副大公は、今でも帝国への忠節を保っているのか?」

 副位の爵位は、全ての保護国の首府に赴任するお目付け役を意味する。帝国の直接叙任(ダイレクト・オマージュ)貴族から選ばれ、赴任する星の一年に相当する期間、保護国を厳しく監察する。たとえ伯爵であっても、大公国に赴任する場合、副大公として勅任され、大公と同じ位階に立つ。ちなみに、保護国内の小貴族は、股者であって、間接叙任貴族に過ぎない……
 わたしは、皇帝の話を聞くうちに、帝国の政治状況が今まさに疑心暗鬼に取りつかれているかに感じた。――疑いの芽は存在するが、それがどの程度成長し、根を張っているのか分からない……そして、放っておけば、カビの菌糸のように、見えないところで、確実に侵食してくる……
 そこで、わたしは、はたと思い当たった――たとえどのような危機が存在したとしても、帝国には、絶対的な安全保障の枠組みがあるではないか!
 『聖薬による平和』――聖薬の独占がもたらす安全保障が……