『天使の翼』第2章(5)
皇帝は、天を仰いでしゃがれた声を発した。その老いと病に侵されてなお力強い顔には、苦々しい怒りと、そして、明らかな恐れの表情が浮かんでいた。
そのような皇帝の表情を見たことのないわたしの心は、たちまち恐怖の冷たい手で鷲摑みにされた。――ただ事ではない何かが起きているのだ。賢帝と言われる現皇帝でさえ、処置を誤れば、銀河の安全保障を揺るがすことになるような……
「サンス大公国で、わが方の諜報部員・情報提供者が、次々と消息を絶っている。――そして、公国内の親皇帝派と目される人物たちが、厳重な監視下に置かれた模様だ」
気付くと、皇帝は、強い視線をわたしに据えていた。
「陛下……サンス……ハロの?」
「そう。銀河外縁部の球状星団を丸ごと領有しておる。わが帝国の衛星国の中、飛び抜けた存在、最大の保護国……この国について、他に知っていることは?」
「……滅亡した第一王朝の流れをくむと、そう称していると――」
「……ハハハハハ……」
皇帝は、押し殺したように笑った。
「それこそが、問題の核心だて――大義名分のあることがな。あの大公の家系が本当に先の王朝とつながっているかは、誰にも分らん……当の大公にだって、絶対の確信はないだろう。しかし、これは、何世代、何十世代にもわたって言われ続けてきた、いわば宣伝だ……否定するにも証拠が要るし、そんなものはない。……第一王朝と第二王朝の違いが何かと問えば、それは、歴史学者に聞くまでもない、第一王朝の皇位は世襲で継承され、第二王朝のそれは、ごく初期の皇帝達を除いてだが、継承は、皇帝の指名による。……第二王朝にあっては、執政官・護民官・大法官のいずれかを経験した者なら、理論上は誰でも皇帝になれる。民主的だが、逆にそれが弱点なのだ。それに引きかえ、血統と言うのは厄介なもので、それ自体は何の意味もなく、個人の資質とも関係ないが、存在自体が分かりやすい」
「……」
「……あの男、フィリポス大公が、事実帝国の転覆を望んでいるとすれば、それは、おそらくあの男が自らの血統を利用しようとしているのではなく、逆に、血統そのものが、あの男の誇りの源泉となっている――第一王朝の血を引くサンス大公の家系は、大公にとっての精神的真実だ……わしのような一介の軍人に言わせれば、実に愚かなこと――自らの野望のために、他のものが見えなくなっておる……わしは、あの男と即位の時に一度だけ会ったが……もう三十年以上前だ。鼻持ちならん若造だったのを覚えておる。人間として、まったく引きつけるものも、才能もないのに、ただただ威張り散らしておった」
皇帝は、歯に衣着せぬ物言いでせせら笑った。わたしは、事の大きさを忘れ、話に引き込まれていた。
「歴史上、性格異常者とは言わぬまでも、資質に欠ける者が権力を握ったことはままある――人類最大の不幸だ。わしは、断じて阻止する!」
皇帝は、声を荒げ、実際こぶしを振り上げた。

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