『天使の翼』第2章(3)

 それは、白を基調とした、質素だが、きわめて洗練された離宮(ヴィラ)だった。
 テラスにいるわたしに吹き寄せてくる風は、潮の香りと、波の音……そして、ほのかな柑橘系の芳香を運んできた。
 海は、皓皓たる月の光に照らされた灌木の茂みの向こうに広がっているはずだ。この島は、人を寄せ付けぬ断崖に囲まれているため、水平線は、テラスのこの位置からは見えない……
 庇におおわれたテラスの床には、何本もの列柱の影が、黒々と奥の暗闇に向かって伸びていた。この館の主人の心を映してか、何物も一切置かれていない、空虚なまでに何もないテラス……ただ一つ、わたしの大切なギターが、無事わたしの足元に置かれている……
 潮風に吹かれて、わたしの心は、いつの間にか澄み渡っていた。これから何があるにせよ、不思議と不安は感じなかった。
 その時、すでに、わたしの心には、運命のさざ波が打ち寄せていたのかも知れない……静かな予兆とともに……
 わたしは、背後に人の動きを感じて振り返った。

 ほのかな明かりの漏れる扉口に、初老の軍人が姿を現した。
 深いしわの刻まれた顔に読み取れる表情は何もなく、つぶらな黒い瞳がひたとわたしを見詰め返してくる――この男、帝国の人間なら誰でも知っている顔。常に皇帝の傍らにある、皇帝が皇帝になる前からの副官。股肱の臣。全てを知っている男。控えめな略綬が示す帝国陸戦隊准将の地位に惑わされてはならない。彼は、皇帝が皇帝になった時准将に任ぜられてから、今まで……三十五年余り、ずっとその階級にあるのだ……
 クレイヴス准将は、思わせ振りなことの嫌いな男に特有の単刀直入さで、一言――
 「入られよ」と告げた。
 わたしは、壁面の間接照明だけの暗い室内に入った。――なんとその照明には、本物の蝋燭が使われているらしい……明かりが、ちらちらと揺れているのだ。その家具らしきもののほとんど置かれていないがらんとした広間は、四つの壁面からの明かりで仄かに揺らいでいた。