『天使の翼』第8章(61)
『人間の標本』、としか言いようがなかった。
何故か、昔入ったことのあるアナトミカの博物館のことを思い出した。
スカルラッティが、再び咳払いした。満悦の表情で――
「声を聞かしてあげよう」
わたしが、麻痺した頭でその意味を理解する前に、スカルラッティの指がコンソールの上を走って、次の瞬間、わたし達の頭上のスピーカーから、情感に訴えるソプラノ・リリコの歌声が降ってきた。
束の間スピーカーを見上げ、かつてカレンだったものに視線を戻したわたしは、自分の目を疑った。――どういう仕掛けでか、カレンの口だけが、顔は無表情のままパクパクと動いている。
わたしは、吐いた――たいして入っていなかった胃の内容物を全て。グロテスクと言ってはそれまでだが、その口の動きが引き金となったのだ。
ことここにいたって、驚きの余り一種の平衡状態を保っていたわたしの心は、完全に平静を失ってしまった。色々なことが、あるべき優先順位にお構いなく、次々と脳裏を横切っていく――
こんなに多くの犠牲者がいるのに、スカルラッティは、カレンと言っただけで、たちどころにプラチナ・ブロンドのソプラノ・リリコと言い当てた――
このどこに、母が――
……スカルラッティが無数といってもよい犠牲者のことを一人ひとり鮮明に記憶しているとしても、それは、ある意味当然の事で、不思議でも何でもない、だって、『殺した』、のだから――
天使の翼!――
変わり果てた母を見て、はたして母と認識できるだろうか?――
……
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